前置き
音楽が流れるまで1分以上MVがある楽曲は苦手だ。
言いたいことは音楽で伝えなさいと思う。
僕は文書を書く人間で、昔小説を書いていたときは、小説の中では意図的に「!」「?」というのを使わないというこだわりを持っていた。
「。」と「、」の可能性がまだ文章表現の中に生きていると思っていた。変なこだわりである。
それと同じような理論で、僕はYouTubeでMVを見るとき、異常な長さの前説みたいなのがあるMVは苦手だった。
(RADWIMPSの会心の一撃は楽曲は大好きなんだけど、MVが少々「長すぎね??余剰じゃね??」と思うのは僕だけじゃないはずだ)
しかし最近、その考えも改められてきた。
とりわけ、UVERworldの「1秒先 向かう者と ただ訪れる者」
この動画はハッキリ言って異常である。
どこが異常か。一回でも見た、聴いたことのある人ならすぐわかるだろう。
今回はこの動画について感想文を書こうと思う。
- 前置き
- 1秒先 向かう者と ただ訪れる者
- 絵を描く少女
- ALL ALONE(独りぼっち)
- 誰が 向かう者で 誰が ただ訪れる者だったのか? 何に 向かう者なのか?
- この作品は希望の作品なのか?
- この世界は美(グロ)い。
1秒先 向かう者と ただ訪れる者
『1秒先 向かう者と ただ訪れる者』-第一話- music by UVERworld「ALL ALONE」
『1秒先 向かう者と ただ訪れる者』-第二話- music by UVERworld「ほんの少し」
まず、この二つの動画を再生する前に、いくつかのことを注意してほしい。
・いまからたっぷり1時間ほど、この世界に没頭する時間があるか
・精神的に、いま少しダークな世界観に触れても大丈夫か
・イヤホンやヘッドホンなど、閉塞的に音楽を聴ければなお良い
さて、この曲を聴いた/見たあなたは何を感じるんだろう?
こんな感想文なんて続きを読むのは野暮だと思うだろうか。あるいは僕ならそう思ったと思う。
そうだったら、この記事を今すぐ閉じたほうがいい。その感覚を大事にしてほしいとおもう。
僕はこの映像を見て、身体の震えが止まらなかった。興奮とも空恐ろしさともつかないところで、心の奥底のほうをキュッと握られている感覚である。
ほとんど独立して流れる六人のストーリーなのに、カメラを持った少年を軸にして、ゆるやかに繋がり、そして最後は各々の結末をそれぞれで迎える。
誰が自殺するか?
それを最後まで提示せず、物語は暗い方向へ流れていく。
一人ひとりの抱える暗部は非常に大きく、箇所によっては「フィクション」の一言で流せない生々しさを孕んでいる。
AV、自殺サイト、逆恨み、いじめ…
一話の、自殺現場の車に張られた白いガムテープ。
二話の、結束バンドとボロいキャスターの椅子、血痕。
妙な生々しさ、息遣いが映像越しに感じられる。見る人が見れば、これくらいは映像作品としてフツーだよ、なんて思うのかもしれないが、僕にとってこの肉薄した世界観は怖いくらい生だった。
絵を描く少女
筆者と一番年が近いのは絵を描く少女「音葉」だろうか。
「なんでそんな気持ち悪い絵を描くのか」という問いに対し、「好きだから」と返す。
ALL ALONEの歌詞にも
私は 絵を描いている時だけ
全てを忘れられる
とあるように、 彼女にとっての世界や希望はそこにあったのだ。
しかしその希望や世界を他人に否定されてしまうことで、彼女の脆弱な世界は瓦解してしまい、そのことが彼女を自殺へと駆り立てることになる。
人が生きる理由は希望(願望)にある。
希望が世界観を支え、行動原理を支える。すなわち希望や願望なくして人は立ち上がることはできない。
音葉はそんな希望をほとんど失いかけ、首を吊って自殺するため街に繰り出す。
そこで出会ったホームレスのおじさんに
「死にたくなったことある?」
と聞く。
「俺に聞くか。そりゃあるさ…お前さんは?」
すると、無言で革のベルトで首を絞め始める。
このあとのおじさんの一言が物凄く良い。個人的にこのおじさんの演技が結構良い。
「もったいねえと思うけどな」
う~~ん。良い。
おじさんは、いつかの日音葉が描いた絵に希望を持っていた。しかしそれを知ることもなく、音葉はその場を後にする。
ALL ALONE(独りぼっち)
第一話で主軸となる曲はALL ALONEである。
この曲は熱烈なメッセージを含んでいる。夢や目標、自分の信じてきた価値観が評価されず、この世界に対して不満を抱えている人。
暗闇での多数決 押し付けられるルール
誰かの虚無感 違和感と
舌打ちが この街に響いてても
そしておそらくTAKUYA∞さんの言いたかったフレーズ(勝手なニワカの憶測)は
お前は お前がやりたい事を やれ
と、
死ぬ間際に お金や物を欲しがる人なんていないでしょう?
僕たちはそんなものを 探す旅をしているんだろう
ではないかと思う。特に二つ目は、TAKUYA∞さん自身の価値観や人生観が透けて見えるフレーズだ。
我々はみな独りぼっちである。どこに行っても、だれといても、一人は一人だ。手を繋いでも抱き合っても、結局ひとつにはなれない。他人は他人だ。
だからこそ、我々は何かを欲しがっている。
誰が 向かう者で 誰が ただ訪れる者だったのか? 何に 向かう者なのか?
チラッとYouTubeのコメント欄を見た限り、このことについて言及するコメントはなかったような。
文章を書くときはなるべくほかの人の意見を読まないようにしているから、あるのかもしれないけれど。(多分ある)
まあ少し考えれば妥当な結論が出るだろう、長崎から出てきた少女「未来」が「訪れる者」なんだろう、と。
「未来」は長崎を逃げるように出てきて、「トウタ」という男にすがるようになる。無意識であろうが、彼の持っている世界に依存するようになり、最終的にともに命を絶ってしまう。
1秒先 向かう者と ただ訪れる者
とあるが、向かう先は1秒後だけではなく、(希望に)向かう者と ただ訪れる者を示しているようにも思える。
1秒後はいずれ来る。今だって来ている。しかし、その1秒後は何なのか、それは自身が向かう者であるか、ただ訪れる者であるかによって変わるんだと思う。
この作品は希望の作品なのか?
「いやいやいや、そうだろ。当然だろ」
と思われてしまいそうな見出しをつけてしまった。しかしこれが今の僕の感想である。
たしかにこれは「希望の歌」である。
でも、単純明快に「希望の歌」ということは僕にはできない。
この作品は、希望や願いを持ち、一度は失い、あるいは持たぬまま死んだ六人の人間を軸として「希望を抱いて、お前はお前のやりたいことをやれ」と伝えている。
しかし、裏を返せば、希望も願いも持てなくなり、一度絶望した事実も描かれている。
たまたま写真に繋がれていなければ、そのままみな絶望の渦の中で暗く死んでいったかもしれないのだ。AV業界に沈み、人を殺し沈み、いじめに絶望して沈み…。
…世の中御伽噺ではないもんだなあと思う。
今のあなたに問おう。
あなたはいまやりたい事や願いがあるだろうか?
それが損なわれそうになったら、あなたは絶望の淵で何を思うだろうか?
ブーメランとしてこの問が返ってきそうになったとき、僕は迷わずこの映像を見るだろう。
この世界は美(グロ)い。
この映像作品はそんな希望と対比し、敢えてそのまま死んでいった「未来」という少女を描いている。
全員が全員、なんの滞りもなく、一度は絶望したけれど、今では前向きに頑張ってます。なんて展開になっていたら、僕は全然この作品に惹かれなかったし、響かなかったろうと思う。
死ぬ人間を描いていて、そこに現実的な息遣いがある。物凄い映像作品だ。
とはいえ音楽が添え物になっているわけでもない。「主題歌」ではない。
何と言うか、これが、この手法のみでしか伝わらないメッセージであって、TAKUTA∞さんの伝えたかった音楽なのではないかと思う。
まあなんにせよ、死んだら「もったいないと思う」ので、相変わらず文を書き、数学をし、音楽を聴いて生きています。
みなさんも生きてね。
おわり