服を買いに行くとき、どうしても一人じゃないと無理だ、という派閥の人間である。
なぜか、と訊かれたときの便宜的な説明として
「同じような服と違う店で出会ったときに、じっくり見比べるのが複数人だと難しいじゃないですか」
と回答しているが、今日ふと考えてみたところ、どうやらそれは微妙に本質とズレているような気もしたのだ。
上のような言い方だと、まるで「俺っちの買い物にィ、他の人はジャマなんすわァ」というような嫌味っぽい雰囲気を孕んでしまう。これは僕の言いたいことではない。
他人VS自分の関係性が、煩わしいとか余計である、みたいな部分を強調したいわけではない。
どちらかというと、服VS自分が問題なのである。
服を購入するのを迷う、というのは、友人と食うラーメン屋をどこにするか迷う、というのとは大違いである。
どうせ一日後には排せつ物になって出てくるラーメンと違って、服は自分という存在そのものをデコレーションする、あるいは自分の内面の一番外側を形成する大事な要素なのである。
つまり、服選びは究極的に、おおごとに言えば、「自己の存在・内面を構築する手段の一つ」だとどうやら僕は考えているらしい。
それに金という代償も付随して払わないといけない。モノによれば結構な金額もする。
その重要な決断の場において、僕は持ち前の不器用さから、どうしても他人が介入するとへたくそになってしまうのだ。みんなが両立してできるその服VS自分の戦いも、僕にはどっちかで手一杯なのだ。
自分の着たい服を着て生きていくのもエネルギーがいるが、そのエネルギーが俺らしさを演出していくのかもしれない。