実家はいつからか、帰る場所だったのが向かう場所になっていた。
昔アルバイトしていたセブンイレブンにライブのチケットの料金を払いに行くと、当然のことながら全く知らない人たちがシフトに入っていた。
勤めていた時、土日の12時から17時は僕のシフトだった。この時間は近所の子供とか主婦とか大学生くらいの人が来るだけで、そんなに忙しくない時間帯だったっけ。
そんなに客足が途切れるわけではなかったけど、たまに来るあまりにも暇なときは、レシートの裏に数学の受験勉強をしたり、彼女に送るプレゼントと給料の計算をしたりしていた。
店内BGMは本当にパっとしない謎のループ音だった。店内放送も無く、ロックバンドの歌声もなく、本当にパっとしない、出所不明の謎のループだった。あれ、Day Dream Blieverだったっけ?あれ?
知らない家が建っていたり、知らない店ができていた。高一の頃にできた空きテナントにカレー屋ができていた。コロナ禍で潰れた運河亭はたぶん未だに潰れているだろう。
小中学生の同級生の中には高卒ですでに就職したひとたちも多くいると聞く。
バイト禁止の高校を終えて、近所のコンビニや書店でバイトする元・友達がたくさんいたと母からきいた。
僕がこの愛すべき札幌の端っこの愛すべき辺鄙な町を離れて、東北で一人くらし、もがいたり死んだように寝起きしたりそれでも前向いてみたり鬱々としてみたりしていた間も、札幌でも同じように時は流れていたんだな、当たり前のことに今更気づいた。
それがなんとなく寂しく感じる。
母がたの祖母は祖父が他界してから北海道の片田舎で独り暮らしている。この前電話したとき、駅前の寂しかった商店街が、コロナ禍のせいで、より一層鈍色に染まっていったことを伝えてくれた。
そんな風にきっと僕の知らないところで急速に色を失っているものが、この世の中に数えきれないほどあるんだと思うと、やっぱり寂寥感をひしひしと感じてしまう。
年末にいつもテレビでやっている「戦力外通告を受けた野球選手のその後のドキュメンタリー」、これを見ると気持ちが寂しくなる。
一発屋芸人チーム、に出てこない一発屋のことを考えると気持ちが寂しくなる。
小学生のころ有名だったYouTuber、ニコニコ動画の再生数ランキング、更新の止まったウェブサイト、解散したバンドのTwitterアカウント。
別に俺が回顧したところでどうなるってわけじゃないけどね。