文章にしていくうちに、この曲を文章に起こすのは野暮なんじゃないかとさえ思えた。
けれど、かきたくなってしまったので書く。つたない文章だから、曲だけ聴いて帰ってくれても、それでぼくは本望である。
くたくたに疲れることがある。
小学生のころはこんな疲れかたしなかったのに、だんだん、しなびるように疲れていく。
小学生のころはただ疲れていればよかった。今日一日を疲れ切れたことが勲章みたいなものだった。疲れた後のことなど考えなくてよかった。
でも今じゃくたくたに疲れている。新鮮な野菜が腐敗する過程の一コマみたいに、くたくたに。
さみしくなる。
考えないといけないことは増え、要求される「できて当然」は増え、頼れる杖は痩せ細り、周りの成功が妬ましく見える、躓くと前よりも痛くなっている。
それがただひたすらにさみしくなる。
そんな思春期の中学生みたいなことを言っている。
でも、本質的に思春期みたいな思考を完全に脱却できている人間なんていないと思う。
ぼくはそう信じていたい。
それに刺さる歌を書く素敵な、かけがえないひとを、ぼくは知っている。
祈りpart2/ヨシダレオ
僕の敬愛するロックバンド「SULLIVAN's FUN CLUB」のギターボーカル、ヨシダレオさんの曲が、この「祈りpart2」である。
MDのジャケットみたいなサムネイルのLylic Videoで、この朴訥とした雰囲気が、傷口にやさしくしみる。
まずは絶対に、この曲だけを聴いてほしい。
余計なノイズなしに。
汚い飯の食い方をして 雑な生き方をしている
不細工なリズムは止まったが 今日も明日も雨らしいすね
出だしから、雑然としたワンルームマンションの一室と、灰皿と、アメスピのつぶれた空き箱、缶チューハイの空き缶、吉野家のテイクアウトの放置されたプラ容器とが目に浮かんだ。
冬はさむくて夏は蒸し暑い部屋だ。
この曲はメロディも歌詞もなんだか寂しい。ふと、日々を生きるうち、立ち止まってしまったときのような雰囲気がする。
僕が生まれてもうどれくらい?
僕が死ぬまではどれくらい?
目覚ましが鳴るまでどれくらい?
夢を見てられるのは?
いままでの目くるめく忙しい日々で、ふと気づいてしまった、眼前にあるまっくらに気づいてしまったように、問いがふつふつ生まれる。
目覚ましが鳴ったら、僕らは夢から醒まされてしまう。
たとえばいつまでぼくは「学生」とか、「何者か」でいられるのだろうか?
そんな「何者か」でいられる夢を、いつまで見られるのだろうか?
欲張ってきたから 間違ってばかりの生活だらけ
逃げ続けてきたから ここには何も残ってないよ
やさしい歌声で歌うには、あまりにも残酷で、けれどヨシダさんの声に恐ろしく溶けていく歌詞。
なんというか、この感覚、どこかで何度もあじわったことがあると思う。
そのたびに、音楽に救われてきた。
きっとみんな、何かをよすがに、生きている。
美しいまま消えたいよ
全てを許して生きたいよ
もがくように歌う声に、脳の奥の忘れてたような部分から響く。
いつからこんな雑に生きるようになったのか、そもそもはじめっからなのか。
いつからなのか?
そして、緊張した風船からゆるく空気が抜けていくように
あぁ やべえ 寝すぎた
と、この曲は終わる。
ギターとシンセサイザ、そして声。その三つと、画面に映っては消えるリリックだけ。
派手な映像効果もないし、演者を用意したビデオもない。そもそも映像もない。
でも、まざまざとイメージは浮かび上がるし、こんなにも心の奥底をゆさぶってくる。
SULLIVAN's FUN CLUBではときに激しく歌い上げられていたメッセージも、同じ人の作詞作曲で、こんなにも豊かに見え方が変わりうるのか。
美しいまま消えたいよ
願わくばそうは思えども、明日も生きるしかない。
くたくたに疲れた日だって、明日は高確率でやってくる。それは仕方ない。
でも美しいまま消えたいよ。
そう思ったって仕方のないこともある。
願わくば美しい明日を。さもなくば…。
ヨシダさんの詞や歌にまた救われた気になっている、勝手に。
おわり