クリープハイプのMVが気づいたら公開されていた。
「おやすみ泣き声、さよなら歌姫」「憂、燦々」の二曲は鮮明に覚えている。といっても、クリープハイプの尾崎世界観のものではない。うまれて初めてライブハウスに一人で行ったその夜に、どっかのコピバンが歌っていたものだ。
近くの人に曲名を聞いて家に帰ってからMVを見た。当時クリープハイプはビクターとひと悶着あって、MVは途中までしか公開されていなかった。
が、その中途半端なMVですら高校生の僕には衝撃だった。メチャクチャだ、全部。このあと僕はいろんな音楽にハマってくわけだけど、それまでお茶の間に流れても大丈夫なポップロックばっかり聞いてきた当時の僕にとっては、ほんとうのほんとうに衝撃だった。
かなり平和に育ち、衝突を避け、グロテスクなものは生活から徹底的に排除してきた僕の世界に濁流のように流れ込むエロ・グロ・アンダーグラウンド。
クリープハイプの楽曲をしばし聴き漁ったのち、僕は放心していた。
で、そんなクリープハイプのMVのフルが突如として公開された。
見てきた。超ブッ飛びそう。昔よりもちょっとだけ色々な経験をして、だからこそ昔よりも強烈にゲボ吐きそう。
特に…「オレンジ」と「憂、燦々」。詞もさることながら、MVがだめだ。俺にとってこれは、ある種の超現実だ。
感じうる不幸や狂気を、最大限に拡張したフィクション。でもこのフィクションはたぶん、どこかの街にいるだれかが実際に経験しているかもしれないほど、極めて現実。
そんなことを昔どこかで言ったな、と思って探すと、つい最近の日記が出てきた。
超センチメンタルになってる。ウケんべ。
ところできょう、本を買った。
こんなツイートしてから買ってる。
最果タヒさんという作家・詩人の本だ。
特に欲しい本も無いのに、お金を持って書店に入り、ニコニコしながら背表紙を眺めてびびっときた本を買うというのは幸福なことで、きょうもそれをやってきた。
そのハイセンスな装丁に目を惹かれ、エッセイ『神様の友達の友達の友達はぼく』を手に取り、中身を1ページだけ読んで読むことを決心した。
でも最近若林正恭のエッセイを読んだばっかりでエッセイ続きだし、それにその人の作品を読む前にエッセイを読むのはもったいない(中学生の頃、村上春樹でそれをやった。『村上春樹雑文集』はかなり面白かったが先に読むべきでない)ので、最果タヒさんの作品を購入することにした。
ネットで調べると詩人であることがわかったが、詩集は現在在庫なし。本当は詩集がよみたかったけど、在庫のあるものを買うことにした。短編集『パパララレレルル』。
パラパラとめくると、観測できる範囲内で3人は人が死んでいた。
思えば人が死んだり不幸になったりするフィクション作品を意識的に避けていた。から、僕は不安だった。一年前おやすみプンプンを読んだときは1週間は閉塞と不安の気配から逃れられなかったし、影響をずいぶん簡単に受けやすい性質だから。
でも…読まなければいけない。なんとなくそんな気がしている。
人間は一生のうち逢うべき人に必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎないときに。なんて哲学者森信三も言ってるわけだし、俺はきっとこれを「読むべきとき」なんだ。
なんか読み返しても、ずっと抽象的なことばかり言ってるブログで歯ごたえが無い気がしてきた。
今日はたぶんそういう日。極度にセンチメンタルになってる、超絶痛い日なので、おとなしくHTML書いて、歯磨いて、ちょっとだけ本を読んで寝る。
心がダメになりそうなときは、岡崎体育の「おっさん」でも聞いて中和しよう。