全てのものに対して素直になっていきたい。
嬉しいときは嬉しいぜの表情を純度100%で出力していきたいし、悲しいときは悲しいぜの表情を純度100%で出力していきたい。
結構難しいのだ。楽しかったり嬉しかったり感謝していたり申し訳なく思っていたりすることを、わざとらしさ無く、相手にまっすぐ伝わるように出力するのって、難しい。もちろん、相手の言ったことに笑ったり、言葉に出してありがとうということくらいは(たぶん)できているんだと思うけど、自分の思う方向に自分の思う感情を自分が思う形式で出力するのが下手である。
下手であるってあたかも自分の性質のようにこれを言っているけど、たぶんこれって「技術」の範疇だから、単に誠心誠意のコミュニケーションをさぼり続けてきた弊害が出ているだけ。例えツッコミだけで会話を成り立たせてきた弊害が最近出ているように感じる。
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sumikaのライブに行った。
アンコール前ラストの「言葉と心」を聴いて、そんでその前の、あまりにもまっすぐすぎるMCをハートブレイクショットのようにモロに喰らって心の奥につっかえていた何かが取れた感覚がした。
俺は自分のことを真っ直ぐ生きることができない人間だと観察している。というか、俺の真っ直ぐはきっと、斜め方向に曲がっているんだろうけども、これを俺は真っ直ぐとして定義して生きていくから、もういったん諦めて気にしないで生きていきます、との立場をとっている。
でもなんか、sumikaの音楽を浴びに浴びて、二つの仮説が自分の中に根差し始めた。
一つは、自分は思ったよりもまっすぐきちんと生きることができているのではないか?ということ。
もう一つは、まっすぐ生きることができないとかできるとかじゃなくて、きちんと前を向いて生きていこうとする者こそが真っ直ぐ生きているということなのではないか?ということ。
特に二つ目の仮説の確からしさは結構高くて。
ひねこびて生きている生き方だけが自分の中で肯定されているような感じがしてるんだけど、それって本当は真っ直ぐじゃないんだなって気付いた。当人の中で絶対的に肯定される=真っ直ぐ、っていう理解のはどう足掻いても少年漫画の中の範疇を出ない。
サッカー日本代表も応援していいんじゃないの? WANIMAとかも聴いていいんじゃないの? TikTokで聞いたことある!って声高に喧伝してもいいんじゃないの? 本当はそうなんじゃないのか?
ラウンドワンもスノーボードも麻雀もパチンコも飲み会のコールもつまらない内輪ノリを垂れ流すだけでおまんま食ってるYouTuberも、本当はそれらすべて俺に必要不可欠な要素だったんじゃないかと、思った。
sumika聴いてこんな感情を抱くのは適切か不適切か、その判断は俺にはしかねるけど、こういう感情になったということだけは大事にしていきたいし、これを堂々とインターネットに刻印しておこうとも思った。
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「真っ直ぐ」とか「素直に」って、想定される何倍の難易度を誇っているんだなって、凄く思った今日だった。