言いたいこと以外言わないソレ

言いたいこと以外のことを言わない文章の集まりです。

バリバリ

 グエッ、となってしまうではないか。マジでもう大人になることから逃げられない年齢に達している。

 正しい時間に寝たくない。正しい時間に起きたくない。正しくあるのは難しい。地球上に存在するイヤホンのうち、絡まっていないイヤホンの割合のことを考えている。もしも、絡まっていなくて整然としているイヤホンの数のほうが多かったら、俺は絶望するしかなくなってしまう。

 正しさ、あ。本当に就職とか将来とか結婚とかキャリアとか積み立てNISAとか本当に刹那的でないその他もろもろの話をしないでほしい。いつまでたってもゆで卵をおいしい半熟にする方法を知らない俺のことを愛してほしい。

 両方できるのはずるい。正しさと正しくなさはきれいにすみわけできていて欲しい。俺たちだけの国を作りたい。

 

日記2024/02/24/ビルドについて

 上京する。

 そのため、メインの物資はすべて東京に送り届けてしまい、いま俺が住む家の設備はネカフェにギリ負ける程度の貧相さになってしまった。一昨日までは家の中にベッドとゴミ袋しか存在しなかった。

 アルバイトを終えて、どうぶつの森の初期装備みたいな家に帰宅したときの寂寥と悲哀は筆舌に尽くしがたいものがあった。ノートPCも持ってきてはいるものの、ベッドしかない家では作業に向かない。だからすることもなくスマホを開きながら横になるのも致し方なかった。

 ああ、引っ越し。ここでできた様々を置き去りにしたり引き継いだりしながら、おれはここを去るのだ。引っ越し……。サカイ引越センターが残していった段ボールもいくつか残っている。処理しなきゃな、不用品。ああ。ああ引っ越し……。

 突如、八木に電流走る。

 段ボールを加工してデスクを作ろう。

 思い立ってすぐにガムテープを手に取り、わくわくしながら俺は段ボールを組み立て始めた。それはさながら秘密基地を構築するような気持ちだった。段ボール一つではマウスを操作するスペースがないから、二つ分組み立ててまたガムテープで強固にくっつける。

 こういった、無や不便から、まるで陣取りゲームのように、自分の快適を提供できるスペースを名付けるみたいにして作り出すのが好きだ。

 これを、漫画家・エッセイストの香山哲さんは『ビルド』と名付け、「自分の快適や充実を、無い場所に作り出すことなら、だいたいどんなものでもビルドだからね」として定義している。俺はこのビルドの説についてきいたとき、すとんと腑に落ちる気持ちがした。

 「例えば・・・お風呂でフライドポテトを食べながら読書をする仕組みをつくることは、ビルドだ。」「2時間くらいノートで作業しても大丈夫そうな喫茶店を見つけるっことだってビルドだ。」と香山さんは例示する。

 俺がいまこの住まいで行っていることもビルドだし、これから東京で行うこともビルドだ。さて、ビルドの下ごしらえのために、俺は今から不用品回収業者に連絡しなきゃな……。

 

 

参考文献:自主れんさい漫画【ビルドの説】|香山哲|note

 

汚い文章(汚い)

 久しぶりに、というか本当に数年単位ぶりに一次創作の活動をしようかなと思い、筆を取った。が、何も書けなかった。正確に言えば書けたが、竜頭蛇尾というか、最初のイントロだけ音が鳴り、あとは小さな鳴き声しかしない謎のオーケストラのような文章が出来上がったので、悲しくなってタブごと削除した。

 思えば書きたいことが無く、書こうとして引いたレールも無かった。

 

 パブロンをにんにく醤油に漬け込むという奇行に及んで爆速で就寝し、昼過ぎに起床した。まさかパブロンが醤油に溶けるとは予想だにしていなくて、寝ぼけまなこで台所を見ると鳥の軟便みたいな黄色茶色いドロドロがあって最悪の気分だった。

 さっきティッシュとかで処理してきたんだけど、あまりにも軟便が過ぎて気分が悪い。うんこ味のカレーとカレー味のうんこ理論に最も近い物体を目撃してしまった気分である。

 うんこについてならこんなに流動的に文章が流れ出てくるのに、いざ創作となってしまうと別の脳味噌の器官を要するから頗る時間がかかるのだ。おそらく、俺にとって創作活動と文章執筆は意味合いがかなり違うからなんだと思う。

 

 俺が文章を書くのは自分の中に堆積した泥濘みたいなものを昇華するためであり、俺が創作するのは俺という肉体では表現できないことを創作の形に寓するためである(と今日の俺は考えているが、明日の俺は多分全力で反駁すると思う)。

 俺自身から生み出したクソをバラスト水みたいに放出するのが文章であるから、創作に文章という媒体を用いるのは俺にとって少し矛盾を含む行為なのである。それこそ、バラスト水が含んでいた日本のワカメやキヒトデが、向かった先の海洋を荒らしつくしてしまったように、文章執筆という手段の船が含む俺くささという不純物が、創作によってもたらされた作品世界を濁らせてしまうのである。

 俺というガワと、俺の言いたいことのバランスというか、関係性について、もう少しきちんと向き合っていく必要があると強く感じている。

 

 俺の心を曇らせている一つの要因、引っ越し作業を進めていく必要性を灼熱のようにじりじり感じながら、文章を書いている。文章を書く場合じゃないときにこそ、文章を書くことは甘美なものになる。

日記2024/02/04

 卒業論文を書き終えて提出し、受領された。

 しかし怖い。何が怖いって、誤字脱字衍字、証明の不備や論理的矛盾を孕んだまま提出していないかどうか、である。数学の学士で卒業しようと思っているのだが、おそらくもっとも論理性みたいなものを重要視される数学において、上記のミスは命取りとなる。

 テキストエディタがWordではなくLaTeXなので、コンパイル前の可読性の低さも問題である。どこになにが書いてあるのか本当にわからない。「い=任意」とかいう怪数式が生まれていてびっくりしてしまった。

 というか卒業論文が不受理で卒業不可なんて不条理だと思う。一生懸命に頑張ってきたので評価してくれないか、俺がシャニマスの曲聴きながら、当たらない八宮めぐるのガチャに絶叫して書いた卒論。

 ハチワンダイバーの右角が「ミッシェルガンエレファント」と言いながら将棋を指していたように、俺もしんどいときは「風野灯織」とつぶやきながら証明と作業を進めた。だから謝辞に風野の名を入れた。俺は終わっているオタクなのかもしれない。

 宙ぶらりんなのでとりま文を書いている。低血糖で手が震える。死にそう。タイピングもままならない。

 

サンドリヨン

 自己嫌悪と他者嫌悪の丁度あいだの感情である。他者への嫌悪というのは、自己の中に存在する(または潜在している)部分への否定も同時に引き起こす。したがって、自己嫌悪と他者嫌悪の丁度あいだの感情である。

 反射的に、俗世的な価値観に顔をしかめることが多くなってきてしまっている。前よりも、「俺を解るな」という感情が強くなり、そしてさらにそれよりも「俺を解ってくれ」という感情が強烈なものになっている。

 要するに傲慢である。ここ最近のテーマである。純朴さを失って、ただ熱烈さだけがこの肝臓に蓄積されている。自分からわかってて正しさに背信しながら、自分の顔が向いている方向に正しさがあると思い込もうとしている。

 わかっていても止められない。自家中毒というか、呼吸困難というか、喉の奥のほうに濾過装置みたいなものがついていて、吸い込む空気から本当に必要なデカい「本質」みたいなものを濾し取ってしまっているのかもしれない。

 アンタがクソ嫌いだ、と思わないように生きてきたが、その代わりに黙って俯いて、相手に見えなくした眼を侮蔑の色にぬるりとかえるような生き方になってきているのかもしれない。やはり表裏一体なもので、そんな自分がクソ嫌いである。

 自信の無さというものを履き違えているのかもしれない。というか、履き違えているのかもしれない。全てを。俺の靴は本当は、12時ごとに消失を繰り返すガラスのアレだったのかもしれない。

 シンデレラは灰をかぶっている。シャルル・ペローの原作『サンドリヨン』に影響を受けたグリム童話『灰かぶり』では、靴に足が入らず足を切り落とされた義姉、自殺した主人を見て、にっこりとシンデレラはわらっている。

短いブログを少し書く、3【系譜を辿ることについて】

 雑談の仕方を忘れるように、雑文の書き方を忘れた。なので練習する。

 

 今初代アイドルマスターのアニメをサイドディスプレイで流しながら、文章をポチポチ書いている。ライバル事務所のリーダー的キャラが「俺だったら、カボチャパンツだってうまく着こなせるぜ」と挑発をしてきているシーンなうである(第17話『真、まことの王子様』)。

 

 アイドルマスターシリーズにハマってから……えーと……?

 そうだ、意図的にこのブログであまり触れていなかったけれど、人生が軽くグラつく程度にはアイドルマスターシリーズにハマってしまったのだった。11月6日を境に、どっぷりと…。はい、アイドルマスター最高。報告終わり。

 

 えっと、で、アイドルマスターシリーズという息の長すぎる作品にがっぷりハマってしまったわけである。今調べたら、最初期のアーケード版の稼働は2001年らしい。自分と全くの同い年であることに驚きを隠せない。同い年のシリーズに、今年初めて出会ったわけである。

 インターネットを小学生のころから無限にやりまくっていたため、もちろん存在は知っていたし、キャラも両手だけでなく両足を使って数えないといけないくらいは知っていた。でも、その真横を今までは素通りしてきた訳だ。「乙女よ大志を抱け」や「エージェント夜を征く」を音楽として聴き、渋谷凛をなんか好みの見た目のキャラ~で通し、シャニマスマイムマイムをなんとなく良MADとして聴き、ダ・ヴィンチ・恐山のアイマスに関するコメントを「こういう雰囲気の人がまっすぐコンテンツにハマってるの意外だよな」なんてふわっと読むのみに留まっていた人生。

 

 そんな、素通り空かし人生。ふわふわ人生(ライフ)。

 

 人生(ライフ)…人生(ライフ)…人生(ライフ)…人生(ライフ)……人生(ライフ)…………!!!!!!!!

 

 そんな人生(ライフ)が音を立てて崩壊!!!!!!!!!

 

 この辺は感情の重量制限が緩和されてきたら上手いことどっかで文章にしようと思うんだけど、俺をぶち壊したゲームこそ、アイドルマスターシャイニーカラーズ』であり、その中で出会った人物こそが「「「風野灯織」」」なのである。

 もう風野灯織に関する文章は、もう感情がヤバすぎて書けないんだけど、もう、あー、一旦な。一旦。

 

 閑話休題

 俺が本格的にハマっているのはアイドルマスターシャイニーカラーズ』(以下シャニマスと言ったり言わなかったり)なのであるが、前述のとおりアイドルマスターシリーズは俺と同い年だというくらいに息の長いシリーズである。

 初代アイドルマスターアイドルマスターシンデレラガールズアイドルマスターミリオンライブ!アイドルマスターシャイニーカラーズ(アイドルマスターSide Mもあるが、ちょっと厳密な場所がわからなかったので省略)という各シリーズの流れがあり、それぞれに何十人以上ものアイドルが存在している。ちょっとググってみたところ、ここまでのアイドルは総勢325名らしい。

 

 ヤバすぎる。追えるわけがない。

 今までの、こういう「大長編」を追うのをなんとなく避けてきた。スターウォーズNARUTOゲーム・オブ・スローンズガンダムなどなどなどなど……。というか一部の追っている人たちの出す「俺達わかってます。え、コレを見ていないの?人生の半分損してるチャユねぇ・・・wピョピョピョ・・・w」感が苦手だったのだけど…。

 

 ちょっとアイマスは追わざるを得ない。何故なら好きだから。スマンな「ピョピョピョ・・・w」民、俺が間違えていた。好きなコンテンツはピョピョらざるを得ないんだな。

 初代↔ミリマスを除いて)シリーズ間において大きな繋がりなどはないが、それぞれのシリーズがそれぞれ違った色の魅力を持っていて、コンテンツを体験していて楽しい。しかも、それぞれが相互に大きな繋がりを持っていないからこそ、どのコンテンツをどうつまみ食いをしても楽しめるという寛容さを持ち合わせているのがとても良いのである。

 

 そして、ピョピョりの民に一番共感を得たのが、「系譜を辿る」こと自体の楽しさである。

 こう、今まで生きてきた間に無意識に触れていたアイマスコンテンツを、「系譜を辿る」内に再認識し始めるのが楽しいのである。「エージェント夜を往く」ってアイマスの曲だったんですね。曲の雰囲気から、めちゃくちゃマクロスとかその辺のバトルアニメの挿入歌かなんかだと思っていた。

 あとは、知っていただけのキャラクターについて、アニメやゲームをプレイすることで、内面や外縁がどんどん深堀りされていき、キャラクターでなく『人物』として顕在化していくのが非常に新鮮な感覚だった。ただのキラメキラリを歌っているアニメキャラなだけだと思っていた高槻やよいが、マジで「「「高槻やよい」」」だったのである。最高。あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。あと全然関係ないけど星井美希星井美希。サンキュ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

 どう?雑文?

 いい感じに雑文でしょ?どう?

 あ、雑文っていうか「チラ裏乙」って感じ?

 そか・・・w

 

 黙れ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!アイマスやれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!系譜を!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!系譜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!酸素!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!千葉!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!滋賀!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!佐賀!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

AI

 なぜ響きのカッコいい言葉はずっと響きがカッコいいんだろう。

 

 ボルケニック・ドラゴンという言葉は、あまりにも小学二年生すぎる文字列ではあるし、ボルケニック・ドラゴンという言葉から小学校で用いていた彫刻刀ケースやエプロンの柄を想起するのはあまりにも容易い。火と竜という要素は安直で幼稚なのかもしれない。

 が、いまだカッコいい。俺はもう22歳なのに、明日朝7時に「ボルケニック・ドラゴンの新卒採用を探しているんですが」と訪問されたら、多分ちょっと真剣に考えてしまうのだと思う。

 

 こういう言葉の響きのカッコよさの永続性はズルい。凪、碧、暁、鴉、焔。漢字一文字ですら、挙げ始めると本当にキリがない。オジサンになっても、これらの漢字にロマンを忘れないでいたいと思うし、ここまでの半生から推察するに、どうせオジサンになっても忘れていないんだと思う。

 カッコいい言葉は双方向性じゃないんだな、だから。カッコいい言葉のほうから朽ちていくこともないし、俺がカッコいい言葉に対して何かを働きかけることはできない。

 カッコいい言葉の完全無欠の巨城を崩せないのは、ロマンチックでありながら、なんだかとんでもなく虚しいことなのかもしれない。

 

 

 

 以上、はてなブログが用意した『AIに記事タイトルをつけさせる機能』のテストでした。

 

 ピックアップするとこ新卒採用でホントに合ってる?