言いたいこと以外言わないソレ

言いたいこと以外のことを言わない文章の集まりです。

今食べてないから。

 人生とは。と考えながらチョコチップパンを食べる。チョコチップパンはおいしい。あれ。ドラッグストアとかスーパーに売っている、5本で100円くらいの格安の棒みたいなチョコチップパン。平坦な日常の味がする。もしくは荒廃した世界の配給みたいな味がする。でもうまい。もくもくと食べてしまう。これを食べているとき、心の底から笑顔だった瞬間などない気がしている。それは平坦な日常と荒廃した世界の配給に共通するものなのかもしれない。

 まあ、今チョコチップパンなんて食べてないんですけど。

 

 正しくは、カロリーメイトを貪り食っていたところである。どっちかって言うとこっちのほうが荒廃した世界の配給っぽいな。だが、平坦な日常感は意外とない。なんというか、チョコチップパンよりも数段、カロリーメイトのほうがドラマチックだ。受験勉強のCMとかに使われたり、残業の差し入れに先輩からもらっているイメージが強いからだろうか。俺はカロリーメイトのCMのアンチだけど、カロリーメイトのもつある種の無機質性は、逆にドラマチックを引き起こすスパイスとなりうるものなんだろうな、ということくらいは分かる。

 まあ、今カロリーメイトなんて食べてないんですけど。

 

 そろそろ嘘ついてもしょうがないので。本当はWoltで頼んだ大盛りのネギラー油牛丼を食べているところだ。ダイエット中の筈なのに、なぜこんなものを食べているのかと聞かれたら、俺は返答に困ってブチギレてしまうだろうと思う。仕方ないと言うための言い訳すら用意できず、困窮し、ただ己の欲望に敗北したその事実のみを真っ向から突き付けられた俺は、潔く過誤を受容することもできず無差別に怒鳴り散らしてしまうのだろう。ただ俺は無力であり、魂が薄弱なものであることを奥歯に嚙み締めながら、苦汁を嚥下するのである。が、そんなことは起きない。なぜなら――。

テーマが欲しいけどテーマ要りません

 ツイートを書くようにブログを書きたいと常々思っている。

 

 ツイートを書くようにブログを書く、というのは「ツイートを書くくらい気軽に」そして「一つのツイートのように端的で必要最小限な」記事を書きたい、という風に説明できる。

 でも、気軽に書くという行為が、果たして自分の本望なのかもわからない。文章を書くことの自分にとってのほんとうの意味が定まっていないのである。

仮説として『自分が生きている証を残していきたいから』とかがあるけれど、どうもしっくりこない。

『何かを生み出している気になれるから』との仮説もある。しかしこれを認めては、いささか循環参照的で、明解な説明を与えたとは言い難い気がする。

 

 伝えたいテーマも、使いたい言葉も、引き出しの中にたっぷり湛えられた語彙もないままにキーボードの打鍵を始めれば、必然このように酩酊した文章群が生成される。

今こうして文字を一文字一文字、丹念に殴りつけている間も、胸中の靄のようなものは一向に晴れない。雲海は頂上から眺めればさぞ荘厳で爽快な景色であるが、その中にいる自分にとっては、幻惑と蒙昧を与えるだけの不快極まりない現象だ。

少しずつ肩が温まってきたような気がする。テーマなどなくても文章程度書けるのだ。…と豪語するほどには何も晴れていない。もう朝の4時だし、体調はすぐれないし、部屋の片付けは終わっていないし。インターネットに無駄な、糸くずみたいな文字列を放流して、呆けて、水に浸していた指の皺が深くなっていく。

 

 自分が住んでいる1Kのマンション。そのKのほうから、洗濯機の騒々しい音がする。こんな深夜に洗濯機を回すべきでないことは分かっているが、これ以上、パンツの一枚でも洗い物を貯めこんだ瞬間、俺の生活は機能不全に陥る気がしている。過冷却という現象があるが、それみたいな感じ。あ、あれでもいい。ピタゴラスカップみたいなイメージでもいい。

 とにかく、非対称性を持った限界生活を送っている。

 床やテーブルの上に広がる、口の開いたペットボトルの数が、肉眼で目視できる星の数にもはや匹敵しそうで、眩暈がしてしまう。

化物以上人間以下。未満ではなく、以下。その範囲の中を、単位円上を動く関数みたいに、半端な周期をもって振動している。「気がする」わけでなく、明確に臭いデスクチェアのメッシュの座面が心底憎い。

 

 テーマの話に戻る。

 テーマを持って文章を書けば、文章に立派な『役割』が生じるが、文章に役割意識や責任感を付与する程自分は健脚じゃない。だから責任逃れみたいな文章をここ数年書いているが、本当にそれは只の足踏みに過ぎなくて悲しい。

そうこうしている内に、ものを明らかに詰め込み過ぎた洗濯機が、脱水の過程で生じる遠心力に耐え切れず大幅に移動してしまっていた。あまりにもけたたましい音がしたもんだから、何があったのかと思ったら、想像以上に怖いことが起きていてぞっとする。

 

 自分の現状がこの洗濯機に投影されるほどダイナミックなものでないことにすらため息が出る。何かのメタファーにもならない、陶磁器みたいな表面の生活に意味があるのか。ええ、あるのですか。ないのですか。

 

 何も見なかったことにして、洗濯機を一度止めて、全く何の処置も施さずに再度洗濯機を起動した。多分あと20分後くらいに同じ事故に悩まされるんだけど、もう気にしない。そういう生活だから、非常に気が滅入る。肉体も朽ちて、精神も腐る、ヤダ。

 

 冒頭の文を少し読み返した。てかもうツイートじゃなくてポストじゃんってことに気付いた。きっと死ぬまでツイートって呼ぶ。ポストって呼び始めてからが人間のはじまりなのだとすれば、ツイートって呼んでる間はどうしても人間に到達することができない。ポストって呼ぶだけで人間に戻れて恋愛もできて仕事もできるようになるんだけど、どうしても手が届かないみたいにツイートって呼んで、それを笑われて生きていく気がしている。

 うがい薬が欲しい。

main.java

public class Main{

public static String main(String[] args){

// あと一時間後に講義が始まるので、そろそろシャワーを浴びて準備しないといけない

// でも文章を書きたくなったので書くしかない

 

// 久しぶりに文章を書くような気がする

// キーボードのタイピングのぎこちなさと、久々に感じる打鍵の心地良さの「久々」の部分がそれを物語っているのだ

 

// 最近は大幅に体調を崩していた

// 早い話が自分の体力を過信しすぎたのと、自分をケアする行動を怠っていたのだ

// だからすべての計画がぐちゃぐちゃになっている

// まだ空咳は止まらない

 

// 風邪薬を飲んで今日も塾講バイトに行く

 

return "マジで疲れたから二日連続のお休みが欲しい"
}

蟄居(難しい熟語を使うためにググる中学生みたいなことした)

一段と冷え込む夜だ。

 

秋が来た。バトル漫画などで「いつの間に背後に…!?」みたいなシーンがあるが、そんな感じの秋が来た。でもきっと、一週間後にはまた暑すぎる日が来て、秋どこ行った、って言うんだと思う。

 

でも今日は輪をかけて寒い。タンスの奥から上着と長ズボンを取り出してきて、着た。やや黴くさい気もするが、きっとこれはタンスの奥地に押し込んでいた怨念が粒子化して飛散しているだけなので、全く体調に影響は無いだろう。そのはずだ。

 

疲れた。温かいボルシチが飲みたい。インスタントじゃないボルシチが。ざくざくとキャベツを刻み、トントンと小気味よく玉ねぎを切る。ビーツなんて初めて買ったな、と脳内でぽつりと考えながら下拵えを済ませ、そろえた具材をぐつぐつ煮込む。そうして鍋いっぱいにできた4日ぶんのボルシチの、半分をすぐさま平らげてしまう。

こういうね、こういうボルシチが食べたい。

貪婪さとは真逆の位置にあるボルシチを、強く望む俺の貪婪さ。

一ミリも部屋や台所を片付ける気もなく、したがって上に述べたような丁寧な暮らしを紡ぐ気も本当は無いのだ。だのに、俺は丁寧なボルシチを心から望んでいる。傲慢で貪欲だ。

 

全てのバランスが前後不覚で、意識の三半規管がすべて同じ方向を向いている。無限に続く空間の中を、微塵も流れのないリンパ液が満たしていて、向きという概念を、この心が失っている。

短いブログを少し書く、その2【今暇?編】

短いブログを少し書く、その2。

 

この記事のタイトル、実はかなり気に入っている。七五調に近いからか、呟いてみると口を閉じた後も口の中に留まるような気分がして、良いね。

aodrips.hatenadiary.com

 

 

本当は今日は「今暇?」と言われることがクソクソクソ大嫌いだ、という話をするつもりだった。

今暇?という言葉は、「予定に誘いたいけど、暇じゃなければ全然大丈夫なんですよだから安心してくださいね」という偽善というか罠というか糞袋に着ぐるみ着せたみたいなゴミ魂胆が透けて見えるクソ of クソ、陰陽道における陽中の陰、気遣いに見せかけた、「コントロール権の強制奪取」なのではないか。

そういった提言をするつもりであった。

 

まあこの主張は部分において正しいと思う。

 

質問は単に「今暇か?」であり、それ以上の意味を含まないように思える。

だが、今暇かを答えることにより、

①暇であれば予定に乗るような『義務』的なものが存在するような気がしてしまう

②また、実際に暇であったとしても『暇である時間』自体が『潰されるべき』であるとされてしまうのが、疲れている身からするとしんどい

③さらに、断った場合、『暇』であることが許されなくなる。なぜなら、今暇か?という質問に対する答えに嘘を吐くことになるからである

といった3箇条もの思考

を巡らせなければならなくなる(気がしている)ので、「今暇か?」は想像以上に罪深い。

 

しかも二十歳を超えた我々にとって、夕方にくるこの質問の終着点は大体飲み会である。お酒は嫌いじゃないが、現在ダイエット中の俺にとっては、かなり不都合である。

ただ、「今暇?」ときかれて「今暇だけど、俺ダイエット中だから飲酒は無理だよ。」って返答するのはさすがに感じが悪い。

だからといって、「暇なんだ!じゃあ飲み会いこや!」って言われて「俺ダイエット中だから無理だよ」というのもばつが悪い。しかも、「今暇?」の罪深さを知らないやつのことだから「一日くらい別に良いべ!」みたいな暴論をかましてくるに決まっている。その一日くらいを積み重ねて俺がここまで太った、ということくらい想像に易いだろうに。

 

 

で、バイト帰りでかなり疲労困憊だったし、1時間くらいしてから(夜ごはんの時間をやや過ぎてから)やっと断りの返信を入れたら、返ってきたLINEがこれである。

「お土産渡しがてら、久しぶりにサシでメシでも行こうと思ってたわ」

 

;;

 

そうなんだよ、人間ってみんな大体いいやつなんだよな;;

 

俺が本当にゴミだ…働きすぎて、部屋が汚すぎて卑屈になっちゃったのだ。

 

先ほど900文字もかけてグズグズ説明していた理論だが、そもそも前提に欠陥があったことに気づいていなかったのだ、俺は。

 

 

予定に誘いたいけど

 

もうこの時点で、何を文句があるんだろう。俺のことせっかく誘ってくれてるのに…

 

 

マジで反省しているので、当人にはこのブログを読んでほしくない。

親愛なる友人、俺は相当疲れているだけなので許してはくれないか。

出力形式が一次元形式なのが悪い

夥しい量の思考しなければならない事柄が、しんしんと降り積もる牡丹雪みたいに堆積し、もはやどうやっても削り取れない砿石みたいになっちゃった。

 

比喩を使うほどに事実(みたいなもの)から遠ざかっていくのはとても悲しいことだ。でも喩えることでしか、すごく曖昧模糊なこの胸中を限られた文の形に出力・格納することができない。全ての物事にはぴったり完璧な文章量というものがあり、それを一文字でも超えたら、あるいは一文字でも足りなかったら、そこに解釈の隙間みたいなものが生まれて、おじゃんになるのだが、当然これを完遂するのは難しい。

今冒頭に書いた文章は、てんで駄目だ。多分12文字足りないか、26文字多い。

 

この文章のように、最近の自分は軸がブレている。というか、無いに等しい。どれくらいブレているかと言えば、「この文章のように、最近の―」の後に続く一人称が、「僕」なのか「俺」なのか迷っちゃうくらいだ。

最近の自分は多重生活の極みを送っている。数か月前にもブログで「自分は二重生活を――」みたいなことを書いた気もするが、それよりもっと事態が深刻化している気もする。

今の自分、こんな感じ。

・教育実習生の「学校の先生」

・個別指導塾アルバイトの「塾の講師」

・イベント会社の「バイトのスタッフさん」

・来年からの就職の「プログラマ見習い」

・数学科の「大学生」

・そしてどうしようもなくぐうたらな「引きこもり体質の人間」

これを一日の中で同時並行的に、そして分量を落とさず(正確に言えば、分量を乗せた掌から、心ならずそれらを零れ落しながら)繰り返しているうちに、自分の所在がわからなくなった。

 

知っている。

多重生活だなんだ言っておきながら、俺は列挙したいから列挙しているにすぎず、俺はただの俺で、好きなようにしたらよくて、これは単なる浅瀬仇波でしかないことは、一個目の「・」を打った時点で自覚しておいたことなのだ。

 

絡まったイヤホンのコードを前に呆然と立ち尽くしているだけの男なのだ、俺は。

イヤホンのコードをほどく最適解を探しているが、「イヤホンのコードをほどく最適解を探すこと」は今の最適解でないのだった。「イヤホンのコードをほどく最適解」を使えるのは、既に知っている者だけで、それを求めることは現時点において愚策でしかない。

 

 

庸中佼佼という言葉を最近知った。小学生のころから信じていた「天才」の位置は、凡夫の俺にとって「庸中佼佼」くらいの位置なのかもしれないなんて思ってしまった。

 

四字熟語、というか熟語は罪だ。今までの不明瞭で曖昧なX文字(Xは自然数)の感情をたったの数文字に、余計で大切な部分を削ぎ落して埋め込んでしまう。

 

削ぎ落された感情や思考の肉片がぐじゅぐじゅいいながら、互いににじり寄って肉塊を形成し、勝手に削ぎ落して文章にした俺への強烈な怨みと言わんばかりに、脳味噌のいたるところを食い破っている。

当然そんなクリーチャーは医学的には存在しないが、確実に何らかの空間に存在していて、俺の脳味噌を実際的に食い千切り、医学的には存在しないどこかの空間で、俺は本当に地獄みたいな痛みを感じているに違いない。

 

そして、地球の裏側で起こった地震が、爆撃が、減衰振動の終着点としてここに波及してくるように、俺は今、本当に、ダメだ。

ぶん

最近、文章が下手なくせに、文章を書くということに対するいびつな矜持みたいなものを持ってしまっていて、自分が醜悪に感じる。

多くの人は、「文」は書けども、必要不可欠でない「文章」など、書かずに毎日を送っている。長い文章を読み書きするのが苦手、という人が多いのは、これがそのまま背景となっているのではないだろうか。

そんな中、必要でない文章を月3ペースで書いている、中途半端な人類俺、登場。

レポート課題をはじめとする文章を、爆速で終わらせることだけに、優越感紛いの何かを抱いている愚かな俺、登場。

 

文章が書けるのは文章を書いているからであって、文章を書いている中では文章が書けないほうなのかもしれないって気付いている。

文章文章文章。「うまい文章 書き方」。上手い文章は伝わりやすい文章だ、とGoogle検索は俺の問いに答えた。バカ。わかりやすい文章が上手い文章なら、世界で一番うまい食べ物はカップラーメンになっちまうだろ。

 

とりあえず良い文章を書くには良い言い分を用意する必要がある、多分。

 

ぶんぶんぶんぶん五月蝿い文章ができてしまった。こうして俺は今日も自分の醜聞を撒き散らすような散文をインターネットに成文していくのである。気分が優れない。