言いたいこと以外言わないソレ

言いたいこと以外のことを言わない文章の集まりです。

汚い文章(汚い)

 久しぶりに、というか本当に数年単位ぶりに一次創作の活動をしようかなと思い、筆を取った。が、何も書けなかった。正確に言えば書けたが、竜頭蛇尾というか、最初のイントロだけ音が鳴り、あとは小さな鳴き声しかしない謎のオーケストラのような文章が出来上がったので、悲しくなってタブごと削除した。

 思えば書きたいことが無く、書こうとして引いたレールも無かった。

 

 パブロンをにんにく醤油に漬け込むという奇行に及んで爆速で就寝し、昼過ぎに起床した。まさかパブロンが醤油に溶けるとは予想だにしていなくて、寝ぼけまなこで台所を見ると鳥の軟便みたいな黄色茶色いドロドロがあって最悪の気分だった。

 さっきティッシュとかで処理してきたんだけど、あまりにも軟便が過ぎて気分が悪い。うんこ味のカレーとカレー味のうんこ理論に最も近い物体を目撃してしまった気分である。

 うんこについてならこんなに流動的に文章が流れ出てくるのに、いざ創作となってしまうと別の脳味噌の器官を要するから頗る時間がかかるのだ。おそらく、俺にとって創作活動と文章執筆は意味合いがかなり違うからなんだと思う。

 

 俺が文章を書くのは自分の中に堆積した泥濘みたいなものを昇華するためであり、俺が創作するのは俺という肉体では表現できないことを創作の形に寓するためである(と今日の俺は考えているが、明日の俺は多分全力で反駁すると思う)。

 俺自身から生み出したクソをバラスト水みたいに放出するのが文章であるから、創作に文章という媒体を用いるのは俺にとって少し矛盾を含む行為なのである。それこそ、バラスト水が含んでいた日本のワカメやキヒトデが、向かった先の海洋を荒らしつくしてしまったように、文章執筆という手段の船が含む俺くささという不純物が、創作によってもたらされた作品世界を濁らせてしまうのである。

 俺というガワと、俺の言いたいことのバランスというか、関係性について、もう少しきちんと向き合っていく必要があると強く感じている。

 

 俺の心を曇らせている一つの要因、引っ越し作業を進めていく必要性を灼熱のようにじりじり感じながら、文章を書いている。文章を書く場合じゃないときにこそ、文章を書くことは甘美なものになる。

日記2024/02/04

 卒業論文を書き終えて提出し、受領された。

 しかし怖い。何が怖いって、誤字脱字衍字、証明の不備や論理的矛盾を孕んだまま提出していないかどうか、である。数学の学士で卒業しようと思っているのだが、おそらくもっとも論理性みたいなものを重要視される数学において、上記のミスは命取りとなる。

 テキストエディタがWordではなくLaTeXなので、コンパイル前の可読性の低さも問題である。どこになにが書いてあるのか本当にわからない。「い=任意」とかいう怪数式が生まれていてびっくりしてしまった。

 というか卒業論文が不受理で卒業不可なんて不条理だと思う。一生懸命に頑張ってきたので評価してくれないか、俺がシャニマスの曲聴きながら、当たらない八宮めぐるのガチャに絶叫して書いた卒論。

 ハチワンダイバーの右角が「ミッシェルガンエレファント」と言いながら将棋を指していたように、俺もしんどいときは「風野灯織」とつぶやきながら証明と作業を進めた。だから謝辞に風野の名を入れた。俺は終わっているオタクなのかもしれない。

 宙ぶらりんなのでとりま文を書いている。低血糖で手が震える。死にそう。タイピングもままならない。

 

サンドリヨン

 自己嫌悪と他者嫌悪の丁度あいだの感情である。他者への嫌悪というのは、自己の中に存在する(または潜在している)部分への否定も同時に引き起こす。したがって、自己嫌悪と他者嫌悪の丁度あいだの感情である。

 反射的に、俗世的な価値観に顔をしかめることが多くなってきてしまっている。前よりも、「俺を解るな」という感情が強くなり、そしてさらにそれよりも「俺を解ってくれ」という感情が強烈なものになっている。

 要するに傲慢である。ここ最近のテーマである。純朴さを失って、ただ熱烈さだけがこの肝臓に蓄積されている。自分からわかってて正しさに背信しながら、自分の顔が向いている方向に正しさがあると思い込もうとしている。

 わかっていても止められない。自家中毒というか、呼吸困難というか、喉の奥のほうに濾過装置みたいなものがついていて、吸い込む空気から本当に必要なデカい「本質」みたいなものを濾し取ってしまっているのかもしれない。

 アンタがクソ嫌いだ、と思わないように生きてきたが、その代わりに黙って俯いて、相手に見えなくした眼を侮蔑の色にぬるりとかえるような生き方になってきているのかもしれない。やはり表裏一体なもので、そんな自分がクソ嫌いである。

 自信の無さというものを履き違えているのかもしれない。というか、履き違えているのかもしれない。全てを。俺の靴は本当は、12時ごとに消失を繰り返すガラスのアレだったのかもしれない。

 シンデレラは灰をかぶっている。シャルル・ペローの原作『サンドリヨン』に影響を受けたグリム童話『灰かぶり』では、靴に足が入らず足を切り落とされた義姉、自殺した主人を見て、にっこりとシンデレラはわらっている。

短いブログを少し書く、3【系譜を辿ることについて】

 雑談の仕方を忘れるように、雑文の書き方を忘れた。なので練習する。

 

 今初代アイドルマスターのアニメをサイドディスプレイで流しながら、文章をポチポチ書いている。ライバル事務所のリーダー的キャラが「俺だったら、カボチャパンツだってうまく着こなせるぜ」と挑発をしてきているシーンなうである(第17話『真、まことの王子様』)。

 

 アイドルマスターシリーズにハマってから……えーと……?

 そうだ、意図的にこのブログであまり触れていなかったけれど、人生が軽くグラつく程度にはアイドルマスターシリーズにハマってしまったのだった。11月6日を境に、どっぷりと…。はい、アイドルマスター最高。報告終わり。

 

 えっと、で、アイドルマスターシリーズという息の長すぎる作品にがっぷりハマってしまったわけである。今調べたら、最初期のアーケード版の稼働は2001年らしい。自分と全くの同い年であることに驚きを隠せない。同い年のシリーズに、今年初めて出会ったわけである。

 インターネットを小学生のころから無限にやりまくっていたため、もちろん存在は知っていたし、キャラも両手だけでなく両足を使って数えないといけないくらいは知っていた。でも、その真横を今までは素通りしてきた訳だ。「乙女よ大志を抱け」や「エージェント夜を征く」を音楽として聴き、渋谷凛をなんか好みの見た目のキャラ~で通し、シャニマスマイムマイムをなんとなく良MADとして聴き、ダ・ヴィンチ・恐山のアイマスに関するコメントを「こういう雰囲気の人がまっすぐコンテンツにハマってるの意外だよな」なんてふわっと読むのみに留まっていた人生。

 

 そんな、素通り空かし人生。ふわふわ人生(ライフ)。

 

 人生(ライフ)…人生(ライフ)…人生(ライフ)…人生(ライフ)……人生(ライフ)…………!!!!!!!!

 

 そんな人生(ライフ)が音を立てて崩壊!!!!!!!!!

 

 この辺は感情の重量制限が緩和されてきたら上手いことどっかで文章にしようと思うんだけど、俺をぶち壊したゲームこそ、アイドルマスターシャイニーカラーズ』であり、その中で出会った人物こそが「「「風野灯織」」」なのである。

 もう風野灯織に関する文章は、もう感情がヤバすぎて書けないんだけど、もう、あー、一旦な。一旦。

 

 閑話休題

 俺が本格的にハマっているのはアイドルマスターシャイニーカラーズ』(以下シャニマスと言ったり言わなかったり)なのであるが、前述のとおりアイドルマスターシリーズは俺と同い年だというくらいに息の長いシリーズである。

 初代アイドルマスターアイドルマスターシンデレラガールズアイドルマスターミリオンライブ!アイドルマスターシャイニーカラーズ(アイドルマスターSide Mもあるが、ちょっと厳密な場所がわからなかったので省略)という各シリーズの流れがあり、それぞれに何十人以上ものアイドルが存在している。ちょっとググってみたところ、ここまでのアイドルは総勢325名らしい。

 

 ヤバすぎる。追えるわけがない。

 今までの、こういう「大長編」を追うのをなんとなく避けてきた。スターウォーズNARUTOゲーム・オブ・スローンズガンダムなどなどなどなど……。というか一部の追っている人たちの出す「俺達わかってます。え、コレを見ていないの?人生の半分損してるチャユねぇ・・・wピョピョピョ・・・w」感が苦手だったのだけど…。

 

 ちょっとアイマスは追わざるを得ない。何故なら好きだから。スマンな「ピョピョピョ・・・w」民、俺が間違えていた。好きなコンテンツはピョピョらざるを得ないんだな。

 初代↔ミリマスを除いて)シリーズ間において大きな繋がりなどはないが、それぞれのシリーズがそれぞれ違った色の魅力を持っていて、コンテンツを体験していて楽しい。しかも、それぞれが相互に大きな繋がりを持っていないからこそ、どのコンテンツをどうつまみ食いをしても楽しめるという寛容さを持ち合わせているのがとても良いのである。

 

 そして、ピョピョりの民に一番共感を得たのが、「系譜を辿る」こと自体の楽しさである。

 こう、今まで生きてきた間に無意識に触れていたアイマスコンテンツを、「系譜を辿る」内に再認識し始めるのが楽しいのである。「エージェント夜を往く」ってアイマスの曲だったんですね。曲の雰囲気から、めちゃくちゃマクロスとかその辺のバトルアニメの挿入歌かなんかだと思っていた。

 あとは、知っていただけのキャラクターについて、アニメやゲームをプレイすることで、内面や外縁がどんどん深堀りされていき、キャラクターでなく『人物』として顕在化していくのが非常に新鮮な感覚だった。ただのキラメキラリを歌っているアニメキャラなだけだと思っていた高槻やよいが、マジで「「「高槻やよい」」」だったのである。最高。あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。あと全然関係ないけど星井美希星井美希。サンキュ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

 どう?雑文?

 いい感じに雑文でしょ?どう?

 あ、雑文っていうか「チラ裏乙」って感じ?

 そか・・・w

 

 黙れ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!アイマスやれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!系譜を!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!系譜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!酸素!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!千葉!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!滋賀!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!佐賀!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

AI

 なぜ響きのカッコいい言葉はずっと響きがカッコいいんだろう。

 

 ボルケニック・ドラゴンという言葉は、あまりにも小学二年生すぎる文字列ではあるし、ボルケニック・ドラゴンという言葉から小学校で用いていた彫刻刀ケースやエプロンの柄を想起するのはあまりにも容易い。火と竜という要素は安直で幼稚なのかもしれない。

 が、いまだカッコいい。俺はもう22歳なのに、明日朝7時に「ボルケニック・ドラゴンの新卒採用を探しているんですが」と訪問されたら、多分ちょっと真剣に考えてしまうのだと思う。

 

 こういう言葉の響きのカッコよさの永続性はズルい。凪、碧、暁、鴉、焔。漢字一文字ですら、挙げ始めると本当にキリがない。オジサンになっても、これらの漢字にロマンを忘れないでいたいと思うし、ここまでの半生から推察するに、どうせオジサンになっても忘れていないんだと思う。

 カッコいい言葉は双方向性じゃないんだな、だから。カッコいい言葉のほうから朽ちていくこともないし、俺がカッコいい言葉に対して何かを働きかけることはできない。

 カッコいい言葉の完全無欠の巨城を崩せないのは、ロマンチックでありながら、なんだかとんでもなく虚しいことなのかもしれない。

 

 

 

 以上、はてなブログが用意した『AIに記事タイトルをつけさせる機能』のテストでした。

 

 ピックアップするとこ新卒採用でホントに合ってる?

ゆく年いたむ足

 実家に帰ってきた。12月31日、午前2時まで友人と数駅離れたカラオケで満身創痍になりながらアイドルマスターの歌を歌い、そこから2時間半くらいかけて歩いて帰宅した。

 朝5時に程近いころに帰宅すると、玄関の電気がついていた。早起きした母が、気をきかせて明るくしてくれているのだろうと思った。

 

 簡単に身の回りを整理して眠りにつき、翌朝目が覚めると昼だった。12:30。

 

 父親に「スーパーマリオの映画みるか?」と起き抜けに要領の得ない提案をされた。寝ぼけ眼を擦りながら、うん、みたいな返事をして階下に降り、ポトフを食べながらマリオブラザーズの映画を見た。

 正直なところ、公開当初インターネットで物議を醸していた「賛否両論」の意味がわかる内容だったが、マリオカートのシーンがあったので俺は満足だった。強いて言うならワルイージを出してほしかった。(ワルイージワリオはマジでどこに行ったんだ?俺が見逃していただけか?)

 

 そしてべるぜバブの漫画の無料公開分を読み耽り、ラミアかわいいなとか国枝かわいいなとか古市好きだなとか言ってたら、夕方になっていた。

 流石に実家に帰ってこの体たらくは、客人扱いされているとは言えドラ息子がすぎるので、さっさとシャワーでも浴びてゴキゲンに食卓の用意などを手伝おうと思い、そそくさと準備を始める。

 不潔だと言われてもしかたないのかもしれないが、こういう時間が無いときは、シャワーでほとんど済ませてしまっているので、当然今日もシャワーで済ませ、ゴキゲンに浴室から出れば、

「今日は風呂を入れるから、風呂掃除をしてくれ」との伝達がなされた。

 別にこちらとしても客人扱いされ続ける気も無かったし、了承して風呂掃除をし始めると、何やらすでに食卓で寿司やら日本酒やらを囲んで食事が始まろうとしている。 

 

 「まだ浴槽洗ってなかったのか」とか言われたけど、5分前に言われて終わる訳ないだろ。いい加減にしてくれ、をぐっと飲み込んで、急ぎに急いで風呂掃除を再開した。

 

 ようやっと浴槽の気になるところを洗い終え、慌てて浴槽から左足を出そうとした瞬間、ぐらりと、少しだけ軸足が滑り、浴槽の縁に思い切り、上げた左足の薬指をぶつけた。

 

 すべての神経が一箇所に集まってぶん殴られたような感覚がして、次の瞬間には、毛筆4400pxの「痛」という漢字のことしか考えられなくなった。

 一旦、家族の方に合流せなならないので、いそいそと集まり、なんかしていれば痛みも引くだろうと寿司を食いに食った。食いに食って獺祭も飲みに飲んだ。

 

 ああ美味しかったと食卓から腰を浮かせると、足が痛い。何かの間違いだと思いまた腰を降ろし、「俺は寿司を食べたし、獺祭を飲んだ。いいお酒といい寿司を食った」と再確認し、腰を浮かせると、足が痛かった。

 は?意味がわからない。俺は寿司を食ったんだぞ?

 寿司ってHP60回復じゃないのか?

 しげしげと足を観察すると、さっき掃除した浴室の黒カビくらい薬指が内出血していた。

 認識した瞬間、誰もいない山の中で倒れた木から音がし始めるように、途端じんじんと激しく痛み始める薬指。なんのジョークだ。薬って名前冠してる癖に人体に一番毒な箇所になっちまった。

 

 ああ痛い痛いああ痛い歩きたくない階段登りたくない1月3日から怒涛のお仕事なのに足が痛いゴミゴミゴミゴミゲボゲボゲボゲボぶん殴りたいぶん殴らせてくれマジでああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああごめんなさい、初詣にはいけません、だって私、薬指が赤黒く腫れ上がっているからああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ消してえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええリライトしてえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええくだらない超鈍痛忘れられない存在感をおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおマジで許さん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 なんて記事を書いていたら、年を越していた。

 

 あとは引き摺った足を元に戻して走るだけ。この鈍痛は去年の俺が残したクソみたいな失敗や怠惰の清算をしているんだな、そう考えると安いもんかもしれない。

 

 今年のスローガンは「合体吸収分析鈍痛勝利」以上。

 

22歳初めて書く文章

 ブルーライトで焼け爛れた眼で、ディスプレイを見つめている。22歳最初の徹夜は、22歳になってからわずか1日経たずに行われてしまった。

 

 いきものがかりの名盤「NEWTRAL」を聴いている。これは記憶によれば、自分が人生で初めて意識的に手に入れた「音楽のアルバム」だった。今でもあのジャケット(初回限定盤)のマットな手触りと、歌詞カードの新品のインクのにおいを憶えている。

 

 ちょっと小学校の頃のことなんてあんまり思い出したくないが(厚顔無恥で浅慮で愚鈍で、それでいて自分に無制限の自信を持っていた恥のペンキ塗りたてみたいな時期だったから)、でも曲を聴くと必然的に当時の記憶ごと掘り起こされてくる。自分のルーツみたいなものが。

 さっきこんなツイートをしたけど、マジでこういう小学生だったから、ちょっと目も当てられない。中二病かつ論破厨の先駆けかつインターネットボーイだったから、マジで嫌だな。

 あのまま育ったら、チーズ牛丼特盛温玉付きって言いかねない温度感に成長する――雰囲気の小学生だった、と思ってる、俺は自分のこと。ニコニコ動画を無限に巡回する傍らでいきものがかりを聴く小学生って、凄い世界が、湾曲してる感じがする。一貫してないよな。ニコニコ動画を見あさる小学生も、いきものがかりを聴きあさる小学生も、双方ステレオタイプとしては想像に容易いのに、合成させると急に意味わからない。

 

 なんというか、自分にも他人にも無頓着なくせに、自分を何か他の事象や将来像みたいなものに投影したり没入することにご執心で、そういった意味で世界との乖離を測定できていない無知なガキだったんだな、と思う。

 

 それがあって今の俺がある、という結論はまあそりゃそうですと首肯せざるを得ないんだけど、でも俺はもう少し大人で平均的でありたかったなって、たまに思ったりもする。

 

 覚えていますか、小5・6の頃の担任。かなり最近まで、俺はあなたが言った「普通」という言葉の意味に悩乱したりする夜があったよ。凄い難しいね普通って。

 小学生のころはかなりクラスが荒れていて、割と惨状っていう他ないくらいだった。具体的に起きていた騒動みたいなのは別にまとめる気がないから、凄く端的に言えば、おそらくあの学年を経験した同級生の中で、小学校教師を志す人間は一人もいなくなっちゃったんじゃないかな、ってくらいの状態だった。(多分みんな同意してくれると思う。)性善説を唱えていた孟子も真っ青になるくらい、本当に終わっていた。

 だから担任の先生も言葉を選ぶ余裕なんて無かったんだと思うけど、このころ「普通」という言葉を彼女に与えられてから、俺が反発と撞着を繰り返す羽目になっちゃった。

 

 

 そう、そんで最近一旦の仮説みたいなものがやっと出来上がった、だから今この話をしている。12歳から22歳まで、10年の年月を経てやっと、折り合いがつきそうな気がしてる。

 

 普通性の担保は、畢竟手前でやるしかないんだ。って。アイデンティティは誰も保証してくれないし、主観が自分にしか備わっていない機能なら、180度割り切って、この世のどこかに存在する「コモンセンス的な普通性」を「普通性なんてものはハナから存在しないので、自身が適宜、自己都合で普通性とかいうものを定義して、その勝手な普通性をなぞる・あるいは逸脱することで自身を充足させることができる」という主観の特権みたいなものとして捉えなおしていいんじゃないか、と。

 今の段階でこんな風に思っているっていう記録を残しておきたい。いきものがかりを発端に呼び起された苦い記憶になんとか折り合いをつけている。

 

 22歳になってこんな恥ずかしい文章をインターネットに放流している。この点において俺は、10年前から全く成長していない。10年後自分の文章を読んで目を逸らしたくなるんだと思うが、マジでザマミロと思う。ザマミロ未来の俺。

 

 厚顔無恥で浅慮で愚鈍で、それでいて自分に無制限の自信を持っていた恥のペンキ塗りたてみたいな時期、は小学生で終わったと思っていたが、どうやらそうではなかった。ここまで10年ずっと続いてきたんだな。そして、あとまだしばらく続くし、そうやって生きていくしかないんだなと思う。

 このブログを閉鎖しなくてもよいくらい、良い文章を書いて上書きしていきたい。あるいは、マジで無視を決め込むしかない。俺はすでに、このブログにいくつか恥ずかしくて読めない記事が、あったりするから。

 

 今年――22歳の目標は特に、無いけど、楽しく生きていきたいし、毎日一歩でも進んでいくか、あるいは意味のある足踏みをして生きていきたいと思っている。